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空飛ぶシビック

機体とエンジンの開発プロジェクトが動き出したのは1986年。
その後、コツコツと技術を磨いては試験飛行を繰り返していたが、
93年に独自設計の小型機「MH-02」の初飛行に成功した。
この小型機は、自動車と同様に階段を使わず乗り込めるように機体を低くし、
軽自動車用のシートを設置した。
機体が低いと翼が地面に接触するため、
翼を機体の天井付近にとりつけ、さらにエンジンをその上に配置したユニークな
デザインで「空飛ぶシビック」と呼ばれた。
ホンダは航空機プロジェクトを終了?!
しかし、MH-02の飛行試験終了後の96年、
ホンダは航空機プロジェクトを終了した。
日本では80年代のバブルが弾け、
91年の湾岸戦争後の石油価格高騰が経済を直撃。
円高進行もあり、ホンダの純利益は93年3月期、
94年3月期と前期比で4割近い落ち込みが続き、
自動車事業の強化に集中していたときでもあった。
プロジェクト終了に納得がいかなかった
藤野(当時36歳)は、
4代目、川本信彦社長に直訴。
実は、
川本は1963年に大学を卒業し
本田技研工業に入社したが
なんと、入社理由が、軽飛行機技術者応募広告を見て応募したというのだ。
このめぐりあわせは、単なる偶然ではない気がする。
川本氏からは
「自分で取締役会を説得してみろ」と言われ、数回にわたり取締役会に出席、
航空機プロジェクトの継続を訴えた。
将来の可能性を強調したという。
その結果、取締役会は航空機事業の継続を承認し、
97年から藤野氏を中心にプロジェクトが再スタートした。
研究拠点をノースカロライナ州に定め、
05年にはホンダジェットの実験機を世界に初公開。
06年には航空機市場への参入計画を発表し、
ホンダエアクラフトカンパニーを米国に設立した。
航空関連産業投資会社、
米アドミラルティ・パートナーズのジョン・カトラー氏は、
ホンダが日本経済の混乱期を乗り越え
型式認証を得る段階にまで持ち込んだことに触れ、
「非常に長い期間と費用をかけた粘り強い取り組みであり、
他の新規参入者にはまねできない」と述べた上で、
「これまでの航空業界にはない、
高品質を低価格で提供する文化を持ち込むだろう」
と期待を示した。
97年 正式にホンダジェットのプロジェクトを再始動した!
ホンダが秘密保持を解き、
正式にホンダジェットのプロジェクトを始動したのは、
97年のことである。
文字通り何もないところから、
航空機エンジンの開発を始めたという。
まさにゼロからの出発だ。
「普通、まったく新しいことをやろうとするときには、
よそでつくったものを買ってきて
バラしてみることから始めるのが常道なのでしょう。
しかし、われわれは、
基本的には自分たちでゼロから設計することにトライしました」
いくら自動車のエンジンをつくっていても、
航空機エンジンは技術的に格段の差がある。
「他人のマネはしないこった」という宗一郎の考え方は、
今もってホンダの理念といっていいのだが、
それにしても無謀な話といえる。
実際、最初の3~4年は、
ひたすら回せば壊れるエンジンをつくり続けることになった。
開発が軌道に乗り始めても、
無鉄砲というか勇ましいエピソードは数知れない。
秘密プロジェクトだというので、
与えられた研究室は窓のない部屋だった。
和光研究所内にある車用ガスタービンのための施設では
開発中の航空機エンジンを回したところ、
衝撃のあまり建物の壁が吹き飛びそうになったことなど・・・
さらに、北海道鷹栖にあるテストコースに櫓を組み、
航空機エンジンを吊るして回したら、
爆音に驚いた旭川の自衛隊基地から、
ヘリコプターが慌てて偵察にきたことなど・・・
発想は、あくまでも車屋そのもの?
ホンダジェットの独創性は、
藤野のこんな発想からだった。
彼は、東京大学工学部航空学科出身であったが、
専門は空力である。
クルマをつくりたくてホンダに入社したが、
ジェット機開発に回された。
破れかぶれの大胆な発想が彼を突き進めた。
従来のビジネスジェットのほとんどが
胴体後部に配置するエンジンを
主翼上面に配置する独特のデザインを考案した。
機内空間を広くしたい。
しかし、エンジンを胴体後部につけるとなると
胴体の内側にしっかりした支柱を通さないといけない。
すると、客室が狭くなる。
「エンジンが邪魔だな」と考えるうち、
エンジンを主翼上部に配置することを思い付いたという。
彼は風洞試験を繰り返し、
最適な配置、すなわちスイートスポットを見つけ出したのだ。
これによって、
空力性能が高まって燃費が格段に向上したほか、
胴体後部のエンジン支持構造が不要になり、
キャビンや荷室を広くできた。
さらにモノとしての仕上がりも上々だ。
居住性に関しても、一切妥協していない。
普通、このクラスの小型ジェット機に乗るとキャビンで
向き合って座った人と足が重なり窮屈だが
足を伸ばせるように座席の配置を工夫している。
また、今の小型ジェット機はトイレが
付いていない機体が多く、
あってもカーテンで仕切られているだけなど
「緊急用」という扱いだが
プライバシーが守れる
フルサイズのトイレを設置した。
独創性はまた、機体デザインにも発揮された。
従来、航空機のエクステリアデザインは
空力設計者が担うため、
多くのジェット機は円柱が
すぼんだような似た顔になる。
藤野は、空気の摩擦抵抗が少ない
「自然層流ノーズ」の独自開発と同時に、
デザインにもこだわった。
デザイン重視は、“車屋”の発想だ。
あるとき、デザインに迷っているとき藤野氏は、
フェラガモのハイヒールを見て、
「これだ!」と思ったという。
尖ったつま先からかかとにかけての
鋭く流れるラインから
現在の尖鋭的なデザインが生まれた。
ホンダジェットがビジネスジェット機というより、
ノーズが尖った戦闘機を
連想させるような鋭い顔をもっている理由である。
2012年、日本人としては初めて、
米国航空宇宙学会の航空機設計賞を受賞したのだ。
ホンダジェットの夢へのあくなき挑戦?
不可能を可能に本田宗一郎の夢?PART3
<PART 4>に続く。