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2014年の秋のNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」
日本のウイスキーの父とも
呼ばれるニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝と
その妻でスコットランド人のリタの夫婦の人情喜劇。
その二人の奮闘は並大抵のことではなかったようだ。
1962年に来日した、イギリスのヒューム副首相の言葉?
「日本から来たひとりの若者が、1本の万年筆とノートで、
わが国門外不出のウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」
と、その若者こそが、ニッカウヰスキー創業者、竹鶴政孝だ。
1918年、24歳にして単身スコットランドに渡欧し、
何のつてもなく、
“日本で本物のウイスキーをつくりたい”と
いう情熱のみが支えだったという。
政孝は持ち前の勤勉さと積極的な
行動で多くの蒸溜所の門を叩き、
苦難と充実の2年間を経て、
本場のウイスキーづくりを習得したという。
こよなく、ウイスキーを愛した竹鶴の
酒量は1日1本。
ニッカウヰスキーハイニッカを好んで飲んだ。
ただし、晩年には3日で2本に減らしたというから
それだけでも半端じゃない。
スコッチ・ウィスキーに魅せられたマッサン?
マッサンこと、
竹鶴政孝は大阪高等工業学校(現・大阪大学)で
醸造学を学び、そこで洋酒に
すっかり魅せられてしまった。
そこで、家業である広島県竹原市の造り酒屋竹鶴酒造は継がず、大阪の摂津酒造に入社。
当時、国産ウイスキー実現の夢を持っていた
摂津酒造は、竹鶴をの本場スコットランドのグラスゴーに単身留学させ、
本場のスコッチづくりを学ばせることになった。それは、1918年のことだ。
当時は、日本がシベリア出兵の最中。
アメリカや日本などがソ連の共産主義への
軍事干渉をおこなった結果、当然大量の食料などの
物質が必要となった。
そこで国内の米屋が一斉に米を売るのを惜しみ、
その結果米価が急激に高騰。
これに憤慨した富山県の漁村の主婦たちが米騒動を起こした年だ。
この時点では第一次世界大戦は、まだ終わってなかった。
運命の出会いが、ここにあった。グラスゴー大学に在学していたリタの妹のエラが竹鶴に
弟・ラムゼイに
柔道を教えるよう依頼したことが、
竹鶴とリタの出会いのキッカケだった。
リタは竹鶴のウイスキーづくりの夢に共感し、
二人の仲は急速に深まっていった。
やがて、カウン家の猛反対に遭いながらも二人は
現地で結婚。
1920年(大正9年)に
リタは竹鶴とともに初めて日本にやってくる。
この場面が、ドラマ「マッサン」の
冒頭の帰郷場面となるわけだ。
リタの日本での日々は、激動そのものだった。
サントリー創業者・鳥井信治郎氏から口説かれる?

帰国後、折りからの不況もあって
摂津酒造にウイスキーづくりの
夢を追いかける資金的体力は
残ってなかった。
同じようにウイスキーづくりの夢を
抱いていた「寿屋」(サントリーの前身)の
鳥井信治郎氏からオファーを受けることになる。
現在の価値で言えば、
数千万円の年俸を提示されたという。
竹鶴は日本初の本格的な
ウイスキー蒸溜所、山崎蒸溜所
でのウイスキーづくりの基礎に
大きく関わる事になる。
しかし、やがて日本の高温多湿な
気候風土に合った
熟成法を主張する鳥井と
あくまでスコットランドと
同じく8年寝かせるべきだと
主張する竹鶴は決別することになる。
スコットランド」を追い求め北海道余市へ?
山崎蒸溜所を退所した竹鶴が
スコットランドに近い気候風土を
追い求めてやってきたのが、
北海道の余市。
1934年に、ここで竹鶴は大日本果汁株式会社、
後のニッカウヰスキーを
設立する。
当時、リンゴジュースをつくっていた
大日本果汁株式会社の「日」と「果」をとって
商品名に、後に社名とした。
余市はスコットランドと似た北の大地。
余市川の豊富な水があり、
湿地であるために土地も安くピートが
とれることだった。
ピートとは、泥炭のことで
麦芽を乾燥させる燃料に使う。
また、現地ではニシン漁が廃れていたため
安い労働力も確保できることなど
ウイスキーづくりの夢を追い求めるには
最適の地であると竹鶴は考えたのだった。
余市蒸溜所では現在も創業時の
情熱が受け継がれ、
現役のニッカウヰスキーの
蒸溜所として、
モルト原酒がつくられている。
歳月を重ねた現在も、
本場・スコットランドでも珍しく
なったという石炭火力により、
余市蒸溜所のポットスチルは稼働している。
日本人以上に日本人らしい、リタの頑張り?
大阪、そして北海道へ渡った夫婦は、
一から立ち上げたウイスキー事業で
失敗の連続。
おまけに太平洋戦争勃発によってリタは
「敵国人」扱いされ、
スパイ容疑をかけられる。
そんな苦難の中で、
明るく前向きなリタの
人柄は政孝と
周囲の人々を照らしたのだ。
当初は日本の言葉や文化に
戸惑っていたリタも、
ががて懸命に習得した流暢な
関西弁を操り、
漬け物や塩辛を作るまでになり
日本文化に溶け込んでいく。
そんなリタを周囲の人は
「日本人以上に日本人らしい」
と褒めたたえたという。
その後、年月とともにリタは病気がちとなり、
神奈川・逗子で過ごす日々を送るが、
亡くなる前年には本人の希望で
再び北海道の余市に戻っている。
竹鶴政孝とリタの夢の結晶。
余市蒸溜所は、
マッサンのリタ―ジャパニーズウイスキー
はこうして誕生したのだ。