リタ9NHK朝の連続ドラマ小説「マッサン」。
主人公エリーを演じる
シャーロット・ケイト・フォックス
とはどんな人物なのか?
日本のいや、関西のイケズによく耐えている。
しかも、これは絶対に許せないと思えることも
ポジティブに乗り越えている。その頑張りと負けん気は我々に朝から勇気を与えてくれている。
それに実にエリーの笑顔がいい。
そんな彼女の横顔に迫った。

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ミュージカル「シカゴ」の地方公演で主演を務めたこともある実力派?

リタ10

シャーロット・ケイト・フォックスさんは
米国出身の29歳。
祖母はドラマの役柄と同じスコットランド出身だ。
米で舞台を中心に活動し、
ミュージカル「シカゴ」の
地方公演で主演を務めたこともある実力派だ。

ニッカウヰスキー創業者の妻・竹鶴リタをモデルとした白人女性のヒロインを募集していることを
オーディションサイトを見て知り、応募したという。
それまで日本に行ったことはなく、
日本語も全く話せないまま臨んだ
オーディションであったが日本語の演技テストで
台詞の意味を理解した上でのズバ抜けた演技とコメディセンスを見せたことで日本国内232人、
日本国外289人の応募者の中から見事、ヒロインに選ばれた。


日本に来るのは冒険だった?好物はぎょうざ?

日本に来るのは冒険だった。
でも結婚して子どものいない今、
挑戦しようと思った。

ケイト4

夫を米ノースカロライナに残した単身赴任というから
肝は座っている。

しかも、日本語は初めてだ。
セリフを吹き込んだテープや
英訳とローマ字表記の台本で頭にたたき込んだという。

今ではインタビューも日本語交じりで答えるまでになった。
共演の玉山鉄二さんも
「大阪弁でツッコミも入れる」と
驚くまでに日本人になったようだ。
そのひたむきさは共演者たちの心もつかんでいる。


玉山さんは彼女をどう見ているのか?

彼女は本当に頑張り屋さん。
不思議なくらい日本人らしい奥ゆかしさを
持ち合わせていて、気配りができていて
ピンチの時もユーモアセンスを忘れない。

リタ10

それどこで覚えてきたの?と
思うような日本語で笑わせてくれる。
一緒にいて本当に心地いいです。

でも、僕には妻がいるので、
これ以上はちょっと、言葉にできません。 (笑)
と褒めちぎっているの頷ける。

好物はぎょうざ。
京都での撮影で食べて以来、
仕事の励みにするほど好きになった
という。
心の底から日本を大好きになったようだ。

まさん

エリーは泉ピン子演じる
しゅうとめからの仕打ちに耐えぬき、さらに夫の就職先の許嫁だった娘にも意地悪をされるが、めげずに夫の ウヰスキー開発を支えた。


私もその夢を手伝いたい!

まっさん3

物語の二人の出会いはスコットランドだった。
竹鶴政孝は広島県の造り酒屋の三男として生まれ、
大阪高等工業学校(現在の大阪大工学部)の
醸造科を出て大阪の摂津酒造に就職。
ここでウイスキーの製法を学ぶため英国・スコットランドに
派遣されていた。

エリー

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グラスゴー大学に籍を置いていた政孝は、
柔道を教えるためある少年の家に招かれ、
その姉リタ(本名ジェシー・ロベルタ・カウン)
と出会った。
その頃、彼女は第一次大戦で婚約者を亡くし、
同大の経済学科に通っていた。政孝はリタに求婚。

「あなたが望むなら、日本に帰るのを断念して、
この国で職を探してもいい」
という政孝にリタはこたえた。

「私たちは日本へ向かうべきです。
日本で本当のウイスキーを造ること。
私もその夢を手伝いたい」。

ふたりが1921年に帰国すると日本は不況の真っ只中。
摂津酒造に本格ウイスキー造りに取り組む余裕はなく、
政孝は退社。中学で化学を教え、
リタも英語やピアノを教えて稼いだ。

リタ1

政孝は23年、
本格ウイスキー製造を目指す寿屋(現サントリー)に請われて入社、大阪・京都境の山崎に日本初のウイスキー蒸溜所を建てた。

だが、ウイスキーはなかなか売れず、
政孝は寿屋を出た後、
34年に大日本果汁を余市に設立。
リンゴジュースなどの販売でしのぎ、
ウイスキーの開発にあたったのだった。


日本人になりきった、でも石を投げられた時代もあった?

リタ7

「リタほど日本人になりきった
外国人も少ないと思う」と
政孝が語るように、
リタはプロの主婦として、
家族と、家族を支える仕事に愛情と誇りを持ち、
楽しく義務を果たしていたようだ。

高熱を出しても、
「私の仕事です」と台所に立った。

トウモロコシをゆでるときは
湯をわかしてから畑でもぎ、
たくあんは食べる直前にたるから出した。

温かい昼食を綿を入れた布で包み、
工場へ届けたという。
政孝が留守の時には
いそいそと洋食を作るといった
「息抜き」もしつつ、
普段は日本風に夫をたて、尽くした。

リタ4

それにこたえるように典型的日本男児であった政孝も、リタの誕生日には愛の言葉を添えた本などを贈り、夜はともにウイスキーを楽しんだという。

第2次大戦が始まると、
町に出たリタは石を投げられることもあった。
特高警察につけられ、
ラジオのアンテナは暗号発信器と疑われた。

戦後、息子の妻である歌子さんに
「戦争中は、鼻を低くして
髪を黒く染めたいと思ったのよ」
ともらしたというから驚きだ。


お気に入りだった余市の風景?

余市2スコットランドによく似た
北海道余市。
リタはたいへん気に入っていたようだ。
余市川にかかる田川橋の上で
足をとめ、そこから見える夕映えの
なだらかな山並みと
フゴッペ海岸をうっとりと眺めていたに違いない。

 

晩年、リタは肝臓や肺を病み、
政孝がよく滞在する東京に近く、
治療にも便利な神奈川、
逗子で過ごすことが多くなったが、
1960年秋には、どうしても帰りたいと余市へ戻った。
クリスマス前夜、窓の外では、
リタを思い近所の教会の信者たちが賛美歌を歌ったという。

エリー14

1961年1月17日、リタが亡くなると、
政孝は自室にこもり、涙に暮れた。

葬儀の相談にも出てこなかったという。

葬儀が終わり、
玄関を出ようとした
ひつぎを政孝は何度も何度もなでていた。

待っさん

余市にこだわった二人は、
今もウイスキー蒸留所を
臨む余市の地に共に眠っている。
合掌。