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2015年、ノーベル医学・生理学賞に北里大特別栄誉教授の
大村智氏が受賞した。
同賞は利根川進氏、山中伸弥氏に次いで日本では3人目である。
受賞理由は、熱帯地方の風土病の薬などで実用化で
医療や科学研究の発展に大きく貢献した功績が評価されたようだ。
10億人の子供の救世主!
大村氏は、昭和50年、静岡県伊東市のゴルフ場周辺の
土壌中で見つけた新種の放線菌から、
寄生虫駆除に効果がある成分を突き止め
「エバーメクチン」と命名した。
ちなみにこのゴルフ場とは、
マリリンモンローが、日本に新婚旅行に来た際に
プレイした場所だった。
そうして、この細菌は、
米製薬大手メルクと共同開発で
家畜の寄生虫駆逐剤「イベルメクチン」
として開発した。
この薬はわずかな量で家畜のさまざまな感染症や
犬のフィラリアに劇的に効き、
世界で最も使われる動物薬の一つになったのだ。
この薬剤は57年、ヒトにも効果があることが分かり
蚊やブヨが媒介する熱帯地方特有の病気、
アフリカなどの風土病である
オンコセルカ症やリンパ系フィラリア症(象皮病)など
ダニが原因の皮膚病の特効薬として普及した。
オンコセルカ症は河川盲目症とも呼ばれ、
線虫の幼虫が目に侵入して発症する。
途上国では失明の主な原因となる恐ろしい病気だが、
イベルメクチンによって症状の悪化を防いだり、
感染を防いだりすることが可能になった。
大村氏は、イベルメクチンの特許権を放棄。
これによって、世界保健機関(WHO)を通じ、
アフリカや中南米などで延べ10億人以上に無償提供され、
多くの人々を失明の危機から救った。
2013年には、コロンビア、昨年9月にはエクアドルが
オンコセルカ症の撲滅を宣言。
イベルメクチンは他の寄生虫や
ダニによる感染症の薬としても広く使われている。
大村氏は、微生物から400種類以上も発見し、
薬の開発だけでなく、生化学や有機合成化学などの
研究を飛躍的に進展させた功績が大きい。
これで、日本の受賞者数は、
米国籍の南部陽一郎氏(08年物理学賞)
を含め23人(医学生理学賞3、物理学賞10、
化学賞7、文学賞2、平和賞1)となる。
第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者の北里柴三郎。
細菌と云えば、血清療法の開発などで世界的に名を知られた
日本の細菌学の父ともいわれた、北里柴三郎氏が思い浮かぶ。
第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者に一人に選ばれた人だ。
北里氏は、私立伝染病研究所の(現在の東京大学医科学研究所)
創立者兼初代所長でここは、
現在の北里大学北里研究所病院にあたる。
狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの
血清開発に取り組む世界的権威者であり、
また、日本医師会の初代会長でもあった。
大村氏の功績を一番に喜んでいる一人かも知れない。
大村氏も北里氏を尊敬し、人の役に立ちたいと細菌の研究に没頭した一人だ。
ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がった野口英世氏。
もう一人、誰も知っている細菌学者の世界的権威者がいた。
子供向けの偉人の代表と呼べる医学研究者、野口英世。
その研究スタイルは膨大な実験データ収集を重視した実践派で
その驚異的なスピードと正確さ、この研究姿勢から
アメリカ医学界では「実験マシーン」
「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄された。
ロックフェラー医学研究所研究員として
細菌学の研究に主に従事し、
黄熱病や梅毒等の研究に文字通り、没頭した。
そして、、黄熱病の研究中に自身も罹患し、
1928年5月21日、ガーナのアクラで51歳の短い生涯を閉じた。
彼の語録には狂気に満ちている。
ナポレオンに出来たのだから、私も必ず出来る
と宣言し、
1日3時間しか眠らなかった。
「まて己(おのれ) 咲かで散りなば 何が梅」
(野口英世よ 出世しなくて何が野口英世だ 俺は何が何でも成功してやる)。
順天堂医院に助手として勤務していたころ
こんな俳句を残している。生半可な覚悟ではなかったようだ。
極めつけは、
努力だ、勉強だ、それが天才だ。
誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
そして、志半ばで生涯に終止符をうってしまった。
人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、
周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである。
そんな、波乱万丈の人生を生きた野口英世。
過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。
人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ。
この言葉を胸に私も生きていこう!
まだ、志は道半ばだ!
大村智さんの生い立ちは変わっている。
山梨大学芸学部自然科学を卒業し、
夜間高校の教師をしていたが
いつも見る、油がこびりついた手や汗で汚れた服。
一日中、労働に励み、それでも勉学にいそしむ
学生の姿に心を揺すられ、
「いったい自分はなんなんだ。もっと勉強しなければ・・・」
と、学びなおそうと東京理科大大学院に入学。
昼は勉強、夜は高校で教鞭をとり、実験に没頭した。
そうした地道な努力が大きく華開いたのだ。
転機は、山梨大の助手時代にワイン醸造に
関わった時に訪れた。
ブドウ糖が一晩でアルコールに変わるのを見て
微生物の虜になってしまった。
ならばと、北里研究所に入所したの始まりだった。
エバーメクチン生産菌。
これが治療が極めて困難だった寄生虫感染症に
有効なイベルメクチンとして生まれたのだ。
その薬が、アフリカの子供たちに光を与えたのだ。
輝く瞳が失われることはなくなったのだ。
「研究者として頑張ってきて良かったと。大村さんは涙を拭った。
そして、こんな言葉をそえた。
この道を歩んで50年。まだ、志は道半ばだと・・・・・・
ノーベル賞、おめでとう。