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ついにホンダが開発中の
小型ジェット機「ホンダジェット」を
2015年より発売する事になった。
それに先立って2014年7月28日から
米ウィスコンシン州オシュコシュの 航空ショーで
量産機を初めて一般公開したニュースが飛び込んできた。
ご存知ない方は、あの2輪のホンダが
なんでと思われかもしれないが、
本当なのである。
独創性がすべての答え
ホンダジェットは全長が約13メートルで、
主翼の上にジェットエンジンがある 独特のデザインが特色。
広めの空間で快適性を追求した機内は標準タイプで乗員を
含めて6人が乗ることができる。
セレブや企業の幹部などが所有するプライベートジェット機である。
価格は450万ドル(約4億5800万円)
北米と欧州ですでに注文を受けており、
100機を大きく上回っているという。
そもそも、ジェット機の開発は、
そもそもは創業者、本田宗一郎の夢だったのだ
世界を夢見る挑戦者たち!マン島TTレースに挑む!
有名な話にこんなのがある。
1917年(大正6年)
当時10歳だった宗一郎は、
米飛行士アート・スミスの
曲芸飛行を見ようと自宅から20km以上
離れた浜松練兵場へ無謀にも
自転車で向かったのだ。
お金もなく入場もできなかった少年は、
木に登って夢中になって飛行機を見たという。
こうして飛行機に憧れ続けた少年は、
車の修理工からオートバイの開発、
製造メーカーを創業し、
スーパーカブをはじめとして次々と
2輪車を生んでいった。
その野望は、品質、性能ともに
世界一を目指すことだった。
それを制するにはレースで勝つこと。
1954年、本田宗一郎は、
2輪レースの檜舞台である
マン島TTレースを視察した。
そこで世界の壁に衝撃を
受けることになる。
トップクラスは想定した
3倍のパワーで走っていたのだ。
ドイツの優勝車はなんと
リッター当り150馬力が
出ていたという。
「1番がっかりした」
と語るほど、その数字は
とてつもないものだった。
早速、マン島TTレース推進本部を
立ち上げ、レーシングエンジンの
研究が始った。
しかし、ホンダはこれまでレースのために
エンジンを開発したことがなかった。
無謀ともいえる宣言だった。
マン島TTレース挑戦を宣言!
このプロジェクトのリーダーとなり任されたのが、
エンジン設計課長であった河島喜好。
後に2代目社長となる。
1947年、本田技術研究所に入社。
大卒相当の社員がいなかったことに加え、
図面が引けるという理由で
宗一郎が採用を即決したという。
河島が引いた図面が気に入らないと、
宗一郎氏は怒鳴り散らして破り捨て、
スパナで殴ったことも
あったという逸話が残る。
彼は、当時まだ30歳前、
しかもメンバーは、ほとんどが20代。
みんな怖いもの知らずの侍だった。
この頃、市場では生き残りをかけて
特にヤマハ発動機との
「HY戦争」が勃発。
熾烈な販売競争に加えて、
2輪メーカーの激しい戦いは
盛んに開催される国内レースを舞台としていた。
1955年、浅間高原において
日本2輪レース史上有名な
「全日本オートバイ耐久ロードレース」
通称「浅間レース」が始まった。
この第1回大会でホンダは肝心の
125ccと250ccで優勝を飾れず、
他メーカーの後塵を
拝したのだった。
この屈辱が若い開発チームの
バネになって経験を積み重ね、
マン島TTレースへの挑戦を
決心するのだった。
あの宣言からすでに
5年の歳月が流れていた。
1959年、監督の河島をはじめとした
9人のホンダチームの面々が
マン島TTレースに初参戦した。
河島 喜好。宗一郎の一番弟子と云われたが、
45歳の若さで2代目の社長に就任。
ホンダ初の4ストロークエンジンを搭載したドリームE型など
最初期の市販モデルから、
レース用バイクの開発にも携わった。
1950年代からホンダのレーシングチームの監督を務め、
1959年?1967年には2輪世界グランプリレースで
ホンダワークスチームを率いていた。
いよいよ決勝レース。1台でも完走してくれれば
データが取れると河島は完走を指示。
次を見越しての戦略だった。
結果は4台とも完走、6位、7位、8位、11位であった。
河島は、目の当たりにした本場のレベルの
高さに驚愕したが、
現地から宗一郎にこんな手紙を送った。
「私たちは初めて世の中に出た、
井の中のカエルでした。
でも、ただのカエルでは終わりません。
きっと3年先には、大海を知るカエルに
成長することをお約束します」
「マン島TTレース」初挑戦から2ヶ月経った。
優勝がなかった浅間レースで、ホンダは圧倒的なパワーを見せつけ
50、125、200、250ccの各クラスを制した。
350ccクラスでも2位と、華々しい戦果をあげたのだった。
侍カエルの成長は驚異的であった。
1960年のマン島TTレースは125、250ccと2つのクラスに出場。
125ccクラスで最高6位。250ccクラスが4位、5位、6位と
河島の計算どおり、確実に階段を昇っていたのだ。
この年、マン島レース以外にも、
世界GPシリーズ6戦にも参戦。
ヨーロッパを転戦し、7月のドイツGPでは初の表彰台、
3位に食い込んだ。
そして9月のアイルランドで2位となり、
いよいよ世界の頂点が見えてきた。
屈辱の3度目の「マン島TTレース」。
マン島TTレース初挑戦から3年目の1961年。
本田宗一郎のマン島宣言から、
7年の時が流れていた。 この年ホンダは、世界GPシリーズ全11戦へフル参戦。
河島をはじめメンバーには、優勝しか眼中になかったが みごと、ホンダチームは125ccクラス、250ccクラスともに 1位から5位までを独占した。
「まるで時計のような精密さ。
アイデアに満ち溢れた完璧なエンジン」 と世界中から絶賛を受けたそのマシンは、
開発と研究を続けてきたメンバーたちの
努力の結晶であったと同時に
若いスタッフの情熱を信じて
このプロジェクトを任せた本田宗一郎の
夢の結実の瞬間でもあったのだ。
ジェット機の開発は本田宗一郎の夢だった!
<PART 2>に続く。