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本田募集その翌年の1962年、勢いに乗るホンダは、昭和37年1月12日、朝日新聞の「国産軽飛行機 設計を募集」の
広告に協賛した。
<主催 朝日新聞社/後援 通産省・運輸省/協賛 本田技術研究所>

くるか ”空中ドライブ時代” 育てよう軽飛行機への夢世はあげてレジャー時代
---老いも若きも旅行や自動車、ゴルフ---余暇を楽しもうと・・・

半ページ以上の記事と共に応募の手引きが掲載された。

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 夢をかたちにする!

「清新なアイデアを簡単な構造で
安い製作費で離着陸のさいの距離は出来るだけ短いこと。

耐空類別は 飛行機実用U類
発動機は本田技術研究所で開発中の

空冷倒立V型8気筒エンジン。

---工業所有権はいっさい主催者側に属する---」
「詳しい応募規定などは新聞社航空部まで

ハガキで申し込まれたい」 などなど。

こうして無謀ともいえる航空機事業への

参入を本田宗一郎は宣言したのである。

2スーパーカブインブ

これは、オートバイのエンブレムであるウイングマーク。

創業者の本田宗一郎が抱いていた、

「いつかは空へ羽ばたきたい」
という願いを込めて採用されたものである。

それほど宗一郎の空への憧れがどれほど強かったことがわかる。

1インブレム

 

秘密保持?苦難の日々の訪れ?ゼロから設計にトライ?

マン島TTレースにかけ、世界一を目指した目標とは
次元の違う高い、高いハードルが立ちふさがるとは
宗一郎も夢にも思わなかったであろう。

決意があったとしても、
航空機の開発はそんなに簡単なことではない。

ホンダが航空機の開発に正式に取り組むのは、

それから24年後の1986年(昭和61年)
「和光基礎技術研究センター」を開設してからである。

ホンダジェットは、創業者・本田宗一郎氏の
「空を自由に移動できるモビリティ」という
夢の実現に向けて、

86年に立ち上がったプロジェクト。

その2年前に入社した男が藤野道格。

このプロジェクトにも河島のような

とてつもない男が現れることになる。

ホンダ藤野社長

彼は、

東京大学工学部航空学科出身で

あったが、日本の航空機産業に

魅力を感じられず
クルマを作りたくて

本田技研工業に入社したのだった。

しかし、この年の人事異動でジェット機開発に回されることになる。

まさに運命の出会いといっていい。

以来、10年間の開発に携わり、

プロジェクトリーダーを
任され、今回のホンダジェットの発売にこぎつける。

米国ノースカロライナ州に設立した
ホンダジェット販売会社ホンダエアクラフトカンパニーの

初代社長に選ばれる。

いわば、ホンダジェットと共に人生を歩んできた男だ。

しかし、その苦難は並大抵ではなかった。
最先端の航空技術を学ぶため渡米したが、

飛行機に触れたこともない自分に
「かなりのギャップ」を感じたという。

1986年秋、米ミシシッピ州にある格納庫の片隅で
当時26歳だった藤野は、

金属片にやすりをかけて粉まみれになりながら
将来をどう描いていただろうか。

藤野は、小型ビジネスジェット機の開発を目指すホンダ が
航空機研究のため米国に送り出した5人の技術者の1人。

ジェット初期

「ある意味ゼロから体で覚えていった」という。
入社2年目に

突然、自動車から航空機部門へ異動を命じられ、
その後10年はひたすら航空機設計を学んだ。

「今思えば、既存製品のコピーが

できてもホンダの飛行機として
長続きしないという長期的視点が

会社にあった」と振り返る。

航空機エンジンの開発のため、

若手技術者数名が集められた。

極秘研究というので、

開発者たちは10年以上にわたって
家族にすら研究内容を話すことが許されなかった。

これは不思議を通り越してクレイジーな話だ。

エンジンに必要な材料チタンや

ベアリング1つにいたるまで
業者に用途を伝えられず、

メーカーに発注ができなかったのだ。
秘密保持の苦労は続いた・・・・

ホンダジェットが飛ぶ!

夢へのあくなき挑戦?不可能を可能に本田宗一郎の夢?PART2

PART 3>に続く。